歴史に名高い作家 日本の文豪「夏目漱石」の人生

日本の作家には数多くの偉人がいます。
その中でも、日本の紙幣ともなった「夏目漱石」は現代においても最も有名な作家の
ひとりだと言えるでしょう。
しかし、夏目漱石の作品は知っていても、夏目漱石の人生や歴史について知らないと
いう方が多いのではないでしょうか。
今回は夏目漱石の歩んだ歴史を紹介します。
出生
夏目漱石は1867年に江戸の夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれ「金之助」と名付けられました。
裕福な家庭に生まれた夏目漱石でしたが、時代は明治維新後の混乱期。
生家が没落しつつあったため、生後間もなく古道具屋に里子として出されてしまうのですが、姉によって実家へ
連れ戻されます。
1868年に直克の書生であった塩原昌之介と奉公人・やす夫婦の元へ養子に出されるものの、家庭内不和で養母と
ともに生家へ。
その後養父母の離婚によって9歳から生家で暮らし始めることになります。
良家の生まれにも関わらず壮絶な人生を歩んでいると言えるでしょう。
裕福な家庭に生まれた夏目漱石でしたが、時代は明治維新後の混乱期。
生家が没落しつつあったため、生後間もなく古道具屋に里子として出されてしまうのですが、姉によって実家へ
連れ戻されます。
1868年に直克の書生であった塩原昌之介と奉公人・やす夫婦の元へ養子に出されるものの、家庭内不和で養母と
ともに生家へ。
その後養父母の離婚によって9歳から生家で暮らし始めることになります。
良家の生まれにも関わらず壮絶な人生を歩んでいると言えるでしょう。
頭抜けた学力
転校を何度か繰り返した夏目漱石ですが、これは大学予備門への入学を目標としたものでした。
1884年に念願の大学予備門学科に入学。
1886年に虫垂炎を患ったことで進級試験が受けられず落第してしまうものの、私立学校で教師などをして生活し、
学業に励んだとされています。
ほとんどの教科で主席と、優れた学力を見せていましたが、特に英語は同窓生と比べても頭一つ抜けていたようです。
1884年に念願の大学予備門学科に入学。
1886年に虫垂炎を患ったことで進級試験が受けられず落第してしまうものの、私立学校で教師などをして生活し、
学業に励んだとされています。
ほとんどの教科で主席と、優れた学力を見せていましたが、特に英語は同窓生と比べても頭一つ抜けていたようです。
俳人との出会い
1889年に同窓生として正岡子規と出会います。
正岡子規はすでに俳人として活動をしていて、彼のペンネームの1つ「漱石」を譲り受けたことで「夏目漱石」と
名乗るように。
1890年、帝国大学に入学。
近親者との死別が相次いだこともあり、厭世主義に陥ります。
後に、松山に帰省していた子規が落第の通知を受け、退学を決意するのですが、それを引き留めるために夏目漱石も松山へ。
そこで、後の作家転向の転機となった高浜虚子と出会うのです。
正岡子規はすでに俳人として活動をしていて、彼のペンネームの1つ「漱石」を譲り受けたことで「夏目漱石」と
名乗るように。
1890年、帝国大学に入学。
近親者との死別が相次いだこともあり、厭世主義に陥ります。
後に、松山に帰省していた子規が落第の通知を受け、退学を決意するのですが、それを引き留めるために夏目漱石も松山へ。
そこで、後の作家転向の転機となった高浜虚子と出会うのです。
イギリス留学

1893年、帝国大学を卒業した夏目漱石は高等師範学校の英語教師になるも、英文学を学ぶことに違和感を覚え2年で辞職。
このころ、極度の神経衰弱に陥ります。
1896年、貴族院書記官長であった中根重一の娘・鏡子と結婚するものの、当時の夫婦生活はあまり上手くいっては
いませんでした。
結婚生活とは対照的に、この頃の夏目漱石は俳人として活躍し、名声を高めていきます。
1900年に文部省より英語研究を命じられイギリス留学へ。
研究の為とはいえ、英文学を読み漁ることは夏目漱石にとって過酷なことで、再び神経衰弱になります。
1901年に科学者の池田菊苗と同居することで刺激を受け、研究に没頭。
しかし、下宿先の主人が心配するほどの「猛烈な神経衰弱」に陥ると、周囲も只ならぬ夏目漱石の状態を案じてか急遽帰国を命じられることになります。
このころ、極度の神経衰弱に陥ります。
1896年、貴族院書記官長であった中根重一の娘・鏡子と結婚するものの、当時の夫婦生活はあまり上手くいっては
いませんでした。
結婚生活とは対照的に、この頃の夏目漱石は俳人として活躍し、名声を高めていきます。
1900年に文部省より英語研究を命じられイギリス留学へ。
研究の為とはいえ、英文学を読み漁ることは夏目漱石にとって過酷なことで、再び神経衰弱になります。
1901年に科学者の池田菊苗と同居することで刺激を受け、研究に没頭。
しかし、下宿先の主人が心配するほどの「猛烈な神経衰弱」に陥ると、周囲も只ならぬ夏目漱石の状態を案じてか急遽帰国を命じられることになります。
作家としてデビュー

イギリスから帰国すると、講師として働き始めます。
しかし、講義内容が硬く生徒から不評であったこと、生徒であった藤村操の入水自殺が原因でまたも精神を患うことに。
1904年、「衰弱した精神を和らげるために小説を書いてみないか?」と高浜虚子に勧められ、処女作『吾輩は猫である』を
執筆、作家としての人生をスタートさせます。
この作品が好評であったことから立て続けに作品を発表。
1907年に朝日新聞社へ入社すると、作家としてさらに活躍の幅を広げていくことに。
しかし、講義内容が硬く生徒から不評であったこと、生徒であった藤村操の入水自殺が原因でまたも精神を患うことに。
1904年、「衰弱した精神を和らげるために小説を書いてみないか?」と高浜虚子に勧められ、処女作『吾輩は猫である』を
執筆、作家としての人生をスタートさせます。
この作品が好評であったことから立て続けに作品を発表。
1907年に朝日新聞社へ入社すると、作家としてさらに活躍の幅を広げていくことに。
夏目漱石の死
1910年『門』の執筆中に胃潰瘍を患い伊豆の修禅寺にて療養をするのですが、容体が悪化。
一時は危篤状態にまで陥ります。
何とか一命を取り留めた夏目漱石は、その後も胃潰瘍に悩まされ続けるものの、執筆活動を続けていき、作品を打ち出していきました。
しかし1916年に『明暗』執筆途中に倒れ、49歳で死去。
夏目漱石の身体は東京帝国大学医学部によって解剖され、脳と胃は寄贈されました。
脳は現在も東京大学医学部に保管されています。
幾度となく心を病み、病魔に侵されても文章を書き続けた夏目漱石。
彼は書き記す文章の中で想いを表現したいと考えていました。
彼の思想は以下の書籍で知ることができます。
一時は危篤状態にまで陥ります。
何とか一命を取り留めた夏目漱石は、その後も胃潰瘍に悩まされ続けるものの、執筆活動を続けていき、作品を打ち出していきました。
しかし1916年に『明暗』執筆途中に倒れ、49歳で死去。
夏目漱石の身体は東京帝国大学医学部によって解剖され、脳と胃は寄贈されました。
脳は現在も東京大学医学部に保管されています。
幾度となく心を病み、病魔に侵されても文章を書き続けた夏目漱石。
彼は書き記す文章の中で想いを表現したいと考えていました。
彼の思想は以下の書籍で知ることができます。
『夏目漱石 「猫」から「明暗」まで』平岡敏夫 著
https://www.choeisha.com/pub/books/56117.html
漱石文学は時代とのたたかいの所産であるゆえに、作品には微かな〈哀傷〉が漂う。『猫』から『明暗』までを味読した本書の魅力もそこに関わっている。新たな漱石を描き出す充実した論集。
『「坊っちゃん」の夢 名作「坊っちゃん」に秘められた漱石の暗号と夢の数々』五十嵐正朋 著
https://www.choeisha.com/pub/books/55837.html
『坊っちゃん』に魅せられた著者が案内するモデル探しの旅と、暗号をめぐる考察。思いがけない人との出会いに導かれ、新潟や会津にも残る漱石の夢を追う。