好奇心をくすぐる事ばかり! 謎多き「邪馬台国」の特徴

日本の歴史において、未だに謎が多いとされている「邪馬台国」
2~3世紀に日本で存在したとされる国の1つで、国内において
邪馬台国の名前すら聞いたことが無いという方はいないのでは
ないでしょうか。
しかし、邪馬台国で人々がどのように暮らし、国が治められ、
そして終焉を迎えたのかという詳細を知っている人はほとんど
いないでしょう。
邪馬台国とは

2~3世紀の弥生時代において日本を代表する大国だった邪馬台国。
中国の史書『三国志』内にある「魏志倭人伝」にて記載が
残されています。
邪馬台国は「卑弥呼」が治めていた女王国であって、倭国連合の
都でもありました。
倭国連合とは古代の中国王朝・周辺諸国が、日本にあった
政治勢力・国家を指した呼称のこと。
1世紀末~2世紀初頭の倭国では政治勢力が乱立を始め、2世紀後期には倭国内で各政治勢力が衝突し「倭国大乱」と呼ばれる大規模な戦争が起きています。
代々男子が倭国王位を継承していたのですが、女子である卑弥呼を王にすることで混乱を収束させました。
卑弥呼は魏への朝貢を行い、親魏倭王の称号を授かるなど、日本・中国の歴史において重要な人物であることは
間違いないでしょう。
邪馬台国の特徴
温暖な気候に恵まれた邪馬台国の住民は基本的に裸足での生活が一般的。
倭国の男子は身分の高低や年齢に関係なく顔や体に刺青をしていたという記述があります。
これは海中で魚から身を守るために行っていたようです。
養蚕を行っており、絹が産物の1つとされていますし、麻や綿についても魏志倭人伝に記述が残されています。
衣服についてですが、男子の場合は木綿の布を頭と身体に巻いているだけ。
女子は髪を下ろすか髷(まげ)を結うかの二択で、一枚の布の真ん中に穴をあけて頭を通し、ひもで結び留めるスタイル
だったことがわかっています。
亀甲や獣骨などを焼いて、入った亀裂から吉兆を占う甲卜(骨卜)が行われていたことも特徴的です。
邪馬台国の所在は?
邪馬台国を語る上で避けては通れないことがあります。
それは「邪馬台国がどこにあったのか」ということ。
未だに侃侃諤諤と意見が飛び交い、明確な答えは出ていませんが、あらゆる説の中でも「邪馬台国九州説」
「邪馬台国畿内説」が有力です。
特に九州説の場合、有力な解釈がいくつもあることが特徴なのですが、邪馬台国の所在は「南薩摩」にあった可能性が
浮上しています。
それは「邪馬台国がどこにあったのか」ということ。
未だに侃侃諤諤と意見が飛び交い、明確な答えは出ていませんが、あらゆる説の中でも「邪馬台国九州説」
「邪馬台国畿内説」が有力です。
特に九州説の場合、有力な解釈がいくつもあることが特徴なのですが、邪馬台国の所在は「南薩摩」にあった可能性が
浮上しています。

飯野布志夫氏著 『眠る邪馬台国』
www.choeisha.com/pub/books/54441.html
南薩摩であるならば様々な疑問点が解消されますし、古事記の伝承と重ね合わせることで邪馬台国の
本質が見えてくるでしょう。
邪馬台国の真実にすこしでも近づきたいという方にオススメの一冊です。