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天下の茶人・古田織部が確立した茶の湯「織部流」

歴史に残る茶人・千利休は茶法を語る上では欠かせない存在だと
言えますが、今日の茶法に大きな影響を与えたと言われている
「古田織部」も忘れてはなりません。

古田織部の茶は利休とは対照的で、印象に残りやすく、多くの人から受け入れられていました。

今回は古田織部が開いた茶の湯の流派「織部流」について
お教えします。

千利休と古田織部、茶の湯の違い


古田織部の師であり、茶聖とも称された千利休が確立したのは「侘び茶」と呼ばれるもの。
表面的な華やかさを否定し、質実な美を追求。
自己主張が少なく、調和を重要視した侘び茶に利休は「静の中の美」を見出しました。

一方の古田織部は織部流を通じて「動の中の美」を追求し、侘びだけではなく、華やかなものを美しいと感じる日本人の心を解放した流派として知られています。

織部流とは


織部流の確立には豊臣秀吉の存在が大きいです。
秀吉は古田織部に「利休が作り出した茶の湯は境の町人の茶で
あり、武家にふさわしくない」と言い、武家流大名風に茶の湯を改革せよと命じたことが織部流の起こりだと言われています。

そのため、利休の茶は侘びや数奇を強調するもので、「私の茶」であるのに対し、織部流は武家を対象とした正式な儀礼にも通用する「公の茶」として成長していくことに。

侘び茶とは異なり、一切の道具を畳に直接置きませんし、呑み回しも行われません。
点前の前に手巾で手を清めて、清潔を何よりも重視します。

また、利休の時代では三畳以下の小さな座敷を使っていましたが、 織部流となると四畳半やそれ以上の屋敷を茶室として使うように変化していきました。

織部流のその後


一時代を築いた織部流ですが、古田織部が徳川家康の命令によって自刃させられた後、門弟のほとんどが徳川家への謀反という罪状から自刃してしまったため、織部流が正しく伝えられなかったのです。

それでも、当時豊後岡藩中川家の家老として存続を続けていた古田家は、14世宗関の代に織部流の立て直しを図りました。

この立て直しは成功し、織部流の伝承が再スタート。
現在でも織部流はいくつかの流派に分かれながらも存在し続け、現代の茶法に大きな影響を与えています。

織部流を学ぶ上で、古田織部の生涯を学ぶことは必須です。
古田織部に関しては以下の本をオススメします。
久野治氏著 『千利休より古田織部へ』
www.choeisha.com/rikyukaraoribe.html

茶の湯の先駆者・千利休と、後継者である古田織部の生み出す芸術の違いと、丹念な検証で見えてきた家康との確執などを記した作品。

古田織部の生涯を見つめるにはうってつけの書物だと言えるでしょう。