三国時代の立役者 戦に生きた「曹操」の生涯
中国の三国時代は229年までに3人の皇帝が生まれ、魏・蜀・呉が成立したことによって始まりました。
しかし、三国時代を語る上で大切なのは、三国時代に至るまでの経緯。
その中でも「曹操」は後漢の丞相・魏王であり、後に起こる魏の基礎を作り
上げた張本人ですので、三国時代を語る上で不可欠な存在です。
生誕
曹操は155年、宦官であった曹騰の養子・曹嵩の息子として生を受けます。
若くして機知に富んだものの、素行が悪く、放蕩を好んだため、当初は世間の評価が低かったようです。
しかし、大尉・橋玄はいち早く曹操の素質を見抜いて高く評価しています。
20歳になると郎(中国の官位)になり、洛陽北部尉に着任。
違反者を厳しく取り締まるようになり、宦官などから能力を疎まれ追放を画策されるほどにまで成長します。
武将の才
184年に起こった黄巾の乱の際には騎都尉として討伐戦に向かい、黄巾軍に大勝。
191年に黒山軍の反乱を鎮圧するために東都太守に任命されると、黒山軍の本拠地に
攻め入り、こちらでも大勝を収めます。
その後、黄巾の残党軍を降伏させ、その中から精鋭を選びぬき「青州兵」として自軍に組み入れていきました。この出来事は曹操の実力を飛躍的にアップさせたきっかけだと考えられています。
この青州兵で、友人であり同盟を結んでいた袁紹と対立していた袁術を撃破。
武将として実力、功績共に充実していたのですが、この時期に父・弟を含めた一族が
陶謙によって殺害されています。
復讐を決意した曹操は徐州に侵攻、陶謙軍に大勝すると数万人を殺害。
しかし『三国志』によると通過した地域で数十万単位の人間を虐殺し、評価を落としてしまいます。
194年に親友であった張?が呂布側に寝返り、領地の大半が呂布のものになります。
曹操は呂布に攻め入りますが敗北。
幸い参謀であった荀彧、程昱、夏侯惇などが本拠地を防衛したこと、飢饉によって呂布軍の兵糧が尽きたことなどが重なり
曹操は帰還を果たします。
しかし、その後呂布軍を敗走させることに成功し、怨敵となった張?の父母・兄弟・養子を皆殺しにすると、領地全ての奪還に成功しました。
中原の覇者と「赤壁の戦い」
当時の後漢皇帝は名目だけの存在となり、群雄割拠の時代となっていたのですが、徐々に淘汰され、勝ち残った曹操と袁紹で中原の覇者を決める「官渡の戦い」が勃発します。
兵力の差が大きく、敗北は必至でしたが、袁紹が指揮を誤った機を逃さず勝利を得ました。
中原の覇者となった曹操は荊州、劉表陣営確保。
「覇者」の肩書が確固たるものになっていきます。
しかし、劉表の下に身を置き、早々から逃走していた劉備に攻め入ろうと長江を下っていたのですが、孫権軍の策略に
かかり、軍船は火攻めに遭います。
疫病の被害とも重なり、撤退することに。
これは「赤壁の戦い」と呼ばれ、後の三国時代に大きな影響を与えています。
その後、魏公と名乗り戦果をあげますが、220年に病のために死去。
後継者に息子・曹丕を指名し、曹操の遺志は引き継がれていきました。
曹操の非凡な才能が彼の武功を生み出していたのですが、彼を支えた参謀の存在も大きな影響を与えています。
先ほどにも名前が挙がった荀彧(じゅんいく)もその一人。
荀彧は若くして「王佐の才」と称されるほどの切れ者でしたが、曹操と対立したことで不遇な晩年を過ごしています。
曹操と荀彧のすれ違いは三国志にも大きな影響を与えています。興味がある方は以下の本がおすすめです。
源 元一郎氏著『荀彧 曹操を高みにおし上げた悲劇の才俊』
www.choeisha.com/pub/books/54847.html
本筋に隠されたもう一つの物語、三国志をより深く知りたいという方はお手に取ってみては
いかがでしょうか。