『ひとつのりんご 』藤田晴央 著 野原萌 絵 図書新聞 平成18年(2006年)11月4日
自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を 自然物は時間の累積に耐えることを矜持として 皆川勤(評論家)
藤田晴央の詩のの言葉は、揺るぎなく、しかもわたしの心性の一点を衝いてくるかのようにひとつひとつが際立っている。誰でもが抱くであろう時間という累積のなかでの憧憬と悔恨、このアンビバレンツな感性の行き処はどこなのかと藤田晴央の詩篇たちが、わたしに問うてくるからだ。
だんだんに時間の累積に耐えることの難しさが露わとなってきた自分の身体性をどうやって方位を定めようかと思案気に佇む時、わたしたちはどういうかたちとありように仮託することになるのだろうか。
東京を離れ、東北の地、弘前(青森)帰還して二十年たった藤田は、「胸の中から溢れ出る」(「あとがき」)という<思い>を。詩篇へと託し続けてきた。そして纏められたこの詩集は、八年ぶり第六詩集となっている。
この藤田詩の現在は、思案気に佇むことになんの衒いをもってもっていない。その潔さが揺るぎなく鮮やかな言葉として立ち上がってくる。
「わたしは/ほんとうのところ/青息吐息なのだけれど/すこし/横になって/青空に浮かぶりんごたちを/眺めていれば/ほどなくして/その枝の指し示すところに/また/歩みだしていけるのではないかと/頭上の/おびただしい/きのうとあしたに問いかけている」(「りんご」)
“桜(さくら)“とともに詩篇たちのなかに多く立ち表れるのは、”りんご“だ。「青空に浮かぶりんご」を横になって眺め続けて、「また/歩みだしていける」気がしてくるという心象は、ともすれば力みがちに自分の立ち位置を確認しようとするわたし(たち)のありように「問いかけて」くるものだ。
この詩集に表れる“りんご”や“桜(さくら)”、“ニッコウスギ”、“ブナ”といった自然物は、時間の累積に耐えることを矜持として自らのありように真摯に在り続けることの暗喩としてあるといっていいはずだ。ならば、耐えることの難しさが露わになるのなら、素直にそれを感受し受け入れていくことで「歩みだしてい」こうと、藤田詩は語っているように思える。
「あなたを抱くと/甘い髪の匂いにまじって/海の匂いが流れてくる/海の匂いは/あのころとかわらず/ぼくを突き動かす」(「ベンセ湿原再訪」)
「あなたよ/わたしはいつまでも森にあって/時にざわざわと激しく揺れている/わたしとあなたがひしひしと抱擁し/頬と頬を押しつけあっていたとき/風は/ふたりを包んでうずまいていた/あのときから世界は誰も知らない森の海底となった」(「緑の海」)
藤田がいう「<あなたとわたし>の世界」は、ひうとつの“自然”となってイノセントなエロス性として表出される。「海の匂い」、「森の海底」は、いわば息苦しくやるせない現在という場所を見通していく道筋としてあるとわたしなら捉えてみたい。「あなたを抱」きながら「甘い髪の匂い」を嗅いで「海の匂い」を感じることができる関係性、「頬と頬をおしつけあ」い、風が「二人を包んで」いると感じあえる関係性、そういう関係性をわたしたちがさらに拡張してみたならば、世界は確かなものとして深い井戸のように<水>を湛えてくれるはずだ。
「りんごがゆっくり降っている/雪よりもゆっくりいくつもいくつも/きみはその中のひとつを受けとめ/ひとくち っては/果肉をみつめている/遠いあの時/戻らないあの時」(「ひとつのりんご」)
藤田の長年にわたっての伴走者でもある野原萌の淡くそして静謐な絵の世界をともなって、詩の言葉たちも静かに降ってくるように思えてくる。
“りんご”が雪よりもゆっくりいくつもいくつも降っているという鮮烈なイメージは、詩の言葉が、ひとるの世界を切り開いていけるのだということを意味する。藤田にはそういう詩の可能性をみずからが生きている場所から問い続けてきたからこそ確信をもって表現できるのだ。
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