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『ベートーヴェンの「第九交響曲」〈国歌〉の政治史』エステバン・ブッフ 著 湯浅史 土屋良二 訳
毎日新聞 本と出会う─批評と紹介 平成17年(2005年)5月8日

国により異なる政治利用、悪用の歴史 評者・富山太佳夫

 桜の花の散る下で、静かに眼を閉じて、『第九』を聞くという趣味も十分にありうると思うのだが、これはどうもおかしいらしい。ベートヴェンのこの有名すぎる交響曲は、各種のバーゲンセールとならんで、今や歳末日本の風物と化しているからか。まあ、議論しても勝ち目はないだろう。せめて負け惜しみにひとつの事実を指摘しておくならば、この曲の初演は一八二四年五月七日のことであった―常識的には、歳末ではないようだ。
なにしろ二百年ほど前に作曲された合唱つきの特異な交響曲で、しかもずっと愛され続けてきたのだから、それ相当の興味深い事実がこびりついていても不思議ではない。この本はそうした事実を年代順にかき集めて、整理したもの。そのまとめ方ひとつで単なるウンチク本にもなるし、真面目に語ると「国歌の政治史」にもなるということだ。この本はもちろん後者だけれど、面白い。異様に面白い。
 『第九交響曲』の結びに近くなって登場する『歓喜の歌』の有名な一行、「人々はみな兄弟となる」は詩人シラーの詩句に基くものであるが、ともかくいろいろな人々の胸に迫るらしい。ロマン主義の時代の音楽家から、フランスの共和主義者にいたるまで、ベートヴェンの同時代の人々が感動したのは当然として、
 「共産主義者たちにとっては、階級なき世界のバイブルとして聞こえた。カトリック教徒にとっては聖書そのものであった。民主主義者にとっては民主主義そのものであった。ヒトラーは自らの誕生日を『歓喜の歌』で祝った。しかし一方、強制収容所のなかに至るまで、人々はこの曲で彼に抵抗した。『歓喜の歌』は、つねにオリンピックで鳴り響いている。ついこの前、サラエボでも響き渡っていた。この曲はまた、人種差別国、ローデシアの国歌であった。今日では、EUの歌である」
(中略)十九世紀のイギリス帝国主義者セシル・ローズの名前を冠したアフリカの国ローデシア(今日のジンバブエ)の話にはまさしく唖然とする以外にはないが、著者はそれについて、「囚人の拷問、市民の圧殺、村の壊滅といったあらゆる種類の人権侵害で罪のある軍隊をも発奮させる」力が『歓喜の歌』の部分にはあるようだとし、その悪用はドイツ第三帝国以来とする。音楽ファンには不愉快きわまりない指摘かもしれないが――そして、歳末になると、楽しげに『第九』の合唱に参加してきた人々にとってもそうかもしれないが――この政治=音楽史の指摘を黙殺するわけにはいかないだろう。
 この二世紀間の『第九』の政治的受容を説明する後半部分以上に私が興味を引かれたのは、実は、「近代政治音楽の誕生」と題された前半部分であった。そこで扱われているのはベートーヴェンの『第九』が成立するまでの前史であるが、この部分がすばらしい。著者はその前史を音楽史の枠の中に封じ込めることはしなかった。『第九』をはぐくむ土壌として彼が注目したのは、西欧の各国がナショナリズムの台頭にあたかも呼応するかのごとく作り上げてゆく「国歌」であった。イギリスの国歌『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』、フランスの『ラ・マルセイエーズ』、オーストリアの『皇帝讃歌』。このような方向からの各国の比較、政治体制の比較というのは初めての試みではないだろうか。「十八世紀に、個人と国家共同体とのかかわりを表現した歌曲『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』によって、国歌というジャンルが出現したほどなくして、ルソーの著作に想を得て、国民共通の歌という神話―これには『ラ・マルセイエーズ』が大きく貢献しているのだが―が形造られ、フランスの革命政府の式典の新たな政治シンボルとなった。この政治歌曲という新しいタイプの曲は、皇帝讃歌という形で、オーストリアの反革命的政府が直ちに利用するところとなり、その作曲は、一警察官吏によって、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンに依頼された」。国歌の性格は、国によってこんなにも違うのだ。しかも、そうした差異のすべてが、『第九』に対する諸々の反応のしかたと悪用のしかたのうちに甦ってくる。
 それにしてもイギリスというのは訳の分からない国である。一七四五年の国歌の成立に最も深くかかわったのがヘンデルという「イングランド王室の主要な御用音楽家」であったのだから。もちろん彼は外国人である――外国人に国歌を作らせるとは。でも、まあ、上にくるのが女王ということになれば、平気で『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』とやる国だから、これも心のなごむ国家的ユーモアか。

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