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書評
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『幻の白鹿王朝 金ヶ崎城』村田 武 著
「歴史研究」第542号2006年7月号 平成18年(2006年)7月10日

わが著書を語る 村田 武

 越前敦賀(福井県)には西暦195年頃、第14代仲衰天皇の皇居、角鹿笥飯宮(つがけいのみや)があった。また『太平記』の記すところでは、南北朝の初め(1336年)後醍醐天皇から譲位された皇太子恒良親王は、敦賀金ヶ崎城に入り、この地に二度の朝廷が生まれました。だが、この朝廷のことは正史にあらわれていません。
 本書は正史から消えたこの朝廷の実体をこの時期重要な役割を果たした、後醍醐天皇の御料であった気比神宮の側から描いています。軍記物である『太平記』の記述には、歴史的資料価値が問題視されてきましたが、本書では現地調査を重ねながら数箇所を訂正して物語を構成しています。
 ストーリーは、鎌倉幕府の滅亡から足利尊氏が幕府を開く前年までを、新田義貞の軍勢と足利尊氏の大軍との攻防とともに、「白鹿」の年号を称した北陸朝廷の誕生から滅亡までを描いたものです。
 「白鹿」年号は、越中国司中院良定から能登の武士得江九郎頼員に発給された感状に「白鹿二年卯月十日」と記されており、宮方によって実際に使用されています。
 この戦いでは足利一族の斯波高経が、越前守護として足利軍の中心となって戦っていますが、斯波高経の家臣には織田信長の先祖といわれる越前織田帯刀左衛門、後年、越前守護となった朝倉一族の初代・朝倉広景が金ヶ崎城の攻防で活躍しています。戦国末期、織田信長に滅ぼされる朝倉一族ですが、この時代、先祖は力を合わせて新田軍と戦っていました。
 『太平記』では北朝方に渡した偽の三種の神器のことがでてきますが、後醍醐天皇が恒良皇太子に譲位したときに渡した神器は本物だったか疑問が生じます。
 物語では本物の三種の神器のありかの謎や周辺の小領主たちが、新田、足利の両勢力の間で生き抜く苦労、あるいは主人公にまつわる人々の生きざまを描いており、面白く読んでいただけるものと思っております。

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