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再び「広島・長崎への原子爆弾投下の過程」を検証する
木本 清
- 木本清著『NHK民営化論 日本語の誤用と外国語教育への妨げ』好評発売中
- 「広島・長崎への原子爆弾投下の過程を考える」際に、不可欠である「投下を決定した側」の論理が窺える原文を引用し、日本語訳を添える。
政治・外交史の検証のために、また大学レベルの英語学習教材としても、重要な役割をもつ一冊。
偏見のない情報を提供するために
目次
- まえがき
Ⅰ フランクリン D. ローズベルト政権最後の年
(1944年4月?1945年4月)と日本
1.「原子爆弾」への言及
[1].トルーマン委員会「原子爆弾開発計画」への支出調査せず(44年6月)
[2].「原子爆弾開発計画」最終段階へ(44年6月)
[3].チャーチル・イギリス首相「原子爆弾開発計画」ソ連への通知反対(44年9月)
[4].ローズベルト大統領グローブズ中将から「3発の原子爆弾完成予定」の連絡受ける(45年1月)
[5].ローズベルト大統領ステティニアス国務長官に「原子爆弾開発計画」を伝える(45年1月)
[6].ソ連へ対日参戦働きかけ(45年1月)
[7].マーシャル将軍(陸軍)「原子爆弾開発計画」ソ連への通知反対(45年1月)
[8].ローズベルト大統領ヤルタ会談でも「原子爆弾開発計画」漏らさず(45年2月)
[9].第2次世界大戦終了後ヨーロッパに関する「思惑」(45年2月)
[10].スティムソン陸軍長官「原子爆弾開発計画」をトルーマン新大統領に伝える(45年4月)
2.「日本」への言及
[1].「日本人だけは信用できない」(44年8月)
[2].太平洋戦争の始まりは「日本による攻撃」(44年11月)
[3].日本人は「利口で、帝国への死を名誉とする狂信的な国民」(45年1月)
[4].関東軍とソ連の対日参戦 (45年1月)
[5].マニラ陥落と太平洋における戦い(45年2月)
[6].太平洋戦争は日米の戦い(45年2月)
[7].日本攻撃のための米ソ合同計画(45年2月)
[8].東京への長い厳しい道(45年3月)
[9].第2次世界大戦終了後のヨーロッパと日本(45年3月)
[10].太平洋戦争終了後日本の占領・統治はマッカーサー将軍に(45年3月)
3.「ヤルタ会談」から
[1].ローズベルト大統領とスターリン書記長
[2].チャーチル首相とスターリン書記長
[3].ローズベルト大統領とチャーチル首相
[4].「ヤルタ会談」での日本
Ⅱ 「広島・長崎への原子爆弾投下反対」の行動
1.トルーマン政権内のスティムソン陸軍長官
[1].「原子爆弾」に関するトルーマン大統領との関わり
(1) 委員会の起ち上げを提案
(2) 委員会の最終結論をトルーマン大統領に伝える
(3) 原子爆弾投下の目標地決定で京都を外す
(4) 「核爆発実験成功」をトルーマン大統領に伝える
(5) 「広島に原子爆弾投下」をトルーマン大統領に伝える
[2].トルーマン大統領への助言
(1) 「ポツダム宣言」に関して
①「ポツダム宣言の中に天皇制維持の条項を」
②「スターリン書記長にもポツダム宣言の署名を」
(2)「原子爆弾投下」に関して
①「原子爆弾投下の前にもう一度日本に降伏の機会を」
②「2発目の原子爆弾長崎への投下中止」受け入れられず
(3)辞任
2.物理学者シラード氏
Ⅲ トルーマン大統領「広島・長崎への原子爆弾投下決断」の過程
1.通常兵器による日本侵攻作戦
2.トルーマン大統領原子爆弾投下決断の要因
[1].人命の犠牲を最少限で戦争の早期終結(太平洋戦争早期終結の必要)
[2].対ソ政策(対ソ連交渉を優位に)
[3].対日政策
(1)日本に求めるのは「無条件降伏」
(2)対日戦勝利と占領はアメリカ合衆国単独で
[4].日本政府の不手際
(1) 政府の思惑
(2) 政府の動き
[5].決断
[6].結果
3.「原子爆弾投下」について考える
[1].投下は必要だった? 必要なかったのでは?
[2].投下の真の目的
あとがき
著者略歴
- 木本 清(きもと きよし)
1943年生まれ
北九州大学外国語学部米英学科卒
元高校教諭
著書
『なぜ学校の英語教育はだめなのか』
『日本語と英語を比べてみれば』
『英語らしいえいぶんを用いるために』
『日本の英語教育をだめにしているのは』
『反論』
『私の英語遍歴』
いずれも(鳥影社刊)
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