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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科45号 砦

松本道介

 「三田文学」(〇九年夏季号)の鷲見陽一「翻訳をめぐる随想」を読んで目から鱗の落ちる思いを味わった。
 鷲見先生を中心に大部のフランス語論文集の翻訳が出版されることになり、八人ほどの人に手伝ってもらったという。
 上手い訳文も出てきたが、中には"凄い"のもあったと言って、二、三行ながらその例が提示される。むろんそのまま出してしまうわけにもいかないから、先生がもじって見せて下さる。なるほどたいへんな直訳調であり、何度も読み直してみないと意味がつかめない。
 大学で教鞭をとっている人たちの訳文がこうなのだから、大学も落ちたものだ。と言っても落ちたのはフランス語の力ではなく日本語力の方らしい。
 フランス語教師の訳文は九五%が村上春樹型だという。村上春樹型とは自然な日本語よりも、まるで「翻訳日本語」なる理想のモデルがあるかのように、「彼」「彼女」などを連発し、欧文の文体や順序を翻訳文に再現しようとつとめるのだそうだ。
 こう言っておいて、鷲見先生は村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の一節と反主流派の一例として、司馬遼太郎「箱根の恋」の一節を示される。
 村上の文章は「僕」、「彼女」と人称代名詞のオンパレードでまどろっこしくて読みにくいし、その一方、司馬の文章となると人称代名詞は皆無、千萱、新九郎という固有名詞が最小限出てくるだけで読みやすい。主語を省くことによって間も生まれるし余情も出てくる。何によりも読むこと自体に楽しさがある。
 ふたつの文章を前にして色々考えさせられた。日本語力のおとろえたのは大学の先生たちだけではない。日本の若手作家たちなのではあるまいか。

大河内昭爾

 伊藤整文学賞はすでに18回を数える。地味とはいえ、その存在は確固たるものだ。
 二十年昔、小樽へ講演に出向いた折、講演主催者の口利きだったと思うが、市会議員や市役所のしかるべき名刺を持った何人かの人たちからいきなり訪問を受けて、伊藤整文学賞を設立したいと相談を持ちかけられた。私は地方政治家の口から文学賞の話が出たこともあって、その頃にわかに目につきはじめた町起こし的文化運動に妙にこだわりをもち、余り乗り気になれなかったことを覚えている。伊藤整氏は詩人である側面と、小説家である事実と、文学史研究の業績もまた、当時すでに注目されていた。一方、文学談義も評判だった。「得能五郎の生活と意見」、「伊藤整氏の生活と意見」、さらに「求道者の文学と認識者の文学」といった分類などの手際よさに、実作者としての視点も生かされていた。私などが口にしている「私小説における調和型と破滅型」といった小説の分類の批評的便宜さなど、一体その多面的な業績のどこを目当てに賞を設定するおつもりですかと、柄にもなくつき放して対応したのだった。しかし、ひっこみもつかず、閉口した風の、使者の方々の政治家的アクの強さも見られぬ様子に私もいささか毒気を抜かれ、「群像」新人賞評論の部受賞の経歴をもつ、札幌藤女子大の小笠原克教授や、その頃まだ存命中だったはずの、北大の和田謹吾教授のお名前などを上げて、具体的なことはそういう北海道のしかるべき方々に相談なさったらいかがかと返事をした。
 その後、文学賞がどういう経過をたどって現在のようなすがたに落ちついたのかはとにかく現在の立派な賞の足跡を見ると、多くの方々の肝いりがあってのことであろう。あの小樽の宿の素朴な語りあいのひとときを思い起こしている。

勝又 浩

 田中和生が文芸時評(「神奈川新聞」平成21・6)で次のようなことを言っている。最近の小説は、ひと頃の「『いかに』書くかにこだわるポストモダン的な作品が明らかに精彩を欠いている」。それに対して戦後永く「自然主義や私小説と結びつけられて否定されてきた、小説に「『なにを』書くかを重視するリアリズム的な作品が存在感を増している」と。そしてそれは、人々が「サブプライムローンのような実質を迂回しつづける言葉ではなく」「より実質のともなう言葉を求めるようになっている」からだろうと。
 なるほどであるし、また、私小説好きの私などには嬉しくもある指摘だ。私も、小説から作られる小説の類(本当にサブプライムだ)や、言うことが何もないことを自慢している小説、捻った心理と捻った表現だけが目的らしい小説、結局何の話もないことを工夫凝らして見せている小説…こんなのにうんざりすることが多い。そしてそれに代わるに西村賢太の新鮮さや、楊逸の超素朴さ(ただし今度の「すき・やき」新潮6月号はよかった)や、イラン女性による「白い紙」(文学界6月号)の、まるでモノクロ時代の映画を見るような小説が、反って評判になるのだろうと思いつつ、田中説に頷いた。
 翻って思うに、同人雑誌小説には、いわゆるポストモダン的な小説など、皆無と言ってよいほど見なかった。それはおそらく、そこでの書き手たちには、まず生活があり、そのなかで文学を考え、書いている人たちだからであるだろう。作品の成否は別にして、小説がいつも「私」自身の「実」から出発しているのである。形態や書き手に時代による変化、推移はあっても、日本では、同人雑誌は文学の基盤なのだという私のオハコが、ここでも実証されたように思われた。

松本 徹

 歌舞伎座さよなら公演で、ことしは賑やかである。おかげでかっての目ぼしい演目の再演を見ることができる。
 先日は、仁左衛門の「女殺油地獄」を見た。期待どおりの舞台で、満足したが、なによりも見事に構成された悲劇として、認識を新たにした。
 これまでは親に甘やかされるまま、無軌道に走る若者をリアルに描き、油屋店頭の殺しの場が評判を呼ぶ、というふうに要約されて来ており、確かにそのとおりだが、実質はギリシア悲劇に拮抗する、抜き差しならぬ運命の劇であると思った。
 このドラマを動かすのは、若い主人公の与兵衛でなく、その義理の父徳兵衛と実母おさわである。二人それぞれが与兵衛の身を案じ、同業の豊嶋屋のお吉を訪ね、困っているようだから渡してくれと金を預ける。この二人の、ひたすら子を思っての計らいが悲劇を招いてしまうのだ。
 物陰に潜んでいて、この両親の心底を知り、心を改めなくてはと決心、与兵衛はお吉の前に現われ、親からの金を受け取る。ところが返済が夜明けに迫る、親の店を抵当にした借金に、わずか足りない。残金を工面しなければ、両親を破滅させることになる。
 そこでお吉に借金を求めるが、女房が勝手に都合出来るわけがない。しかし、親の慈愛を知り、改心したがゆえに、なにがなんでも金を作らなくてはならないと心を決めているのだ。そこに殺人へ至る一本の道がくっきりと浮かび出てくる。彼はその道を突走り出す・・・・・・。
 ここに悪の影はいささかも差さない。善心に目覚めた若者が、恩愛に応えようとすることによって、血の海を出来させてしまうのだ。善悪を越えた論理が見事に通った、ギリシア人の知らない、運命劇である。近松の世話物の中でも別格だと思った。

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