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季刊文科編集委員によるコラム「砦」を一挙公開。

季刊文科46号 砦

松本道介

 先号の「砦」でも触れたが、日本の若い人の書く文章が駄目になってきた。いや、世界的に駄目になってきた。
 文章のみならず、音楽も駄目になってきた。私は特にドイツ人の音楽に関心を持つ人間なので、先日ドイツで長らく声楽を教えている日本女性と同席した際そんなことを話してみた。
 その女性も同感であるという様子だったので、私はもう一歩踏みこんで、なぜこんなことになったのだろうとたずねてみた。返ってきた答は実に意外なものであった。
 何かの疑問があると、インターネットなどを通じてすぐに答が出てくる──そんな世界になったから、彼らの音楽がつまらなくなったと言ったのである。
 私は文章の衰退についても同じようなことを考えていたので、なるほどと相槌は打ったものの、音楽の専門家からこんな答えかたをされようとは夢にも思わなかった。
 そのあと、いったいなぜ音楽にも同じことが起きているのかわからなくて何度も何度も考えた。
 むろん答など出てはこないが、一番よく思い出したのは「論語」のなかの〈学びて思わざれば則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し〉であった。
 これを受けて江戸初期の儒者伊藤仁斎の〈疑いを積み、問いを重ねるのが大事であって、理解や明答に別して奇特があるものではない〉(小林秀雄「考えるヒント」)が続く。どうやら若い人は、とりわけ器械とつきあって器械のロボットになりつつある人たちは、疑うことも問うこともないまま、理解や明答に達してしまっているらしい。
 それにしても今から二千五百年前の、器械などまったくといっていい程なかった時代の人である孔子はなぜこれほど素晴らしい言葉を残してくれたのだろう。

吉村昭の海外評価 大河内昭爾

 十月十四日、井の頭公園脇の津村節子さんの家に行き、フランス「ル・モンド」の吉村昭取材に立会った。訪問記者はいかにも文学記者らしく気取りのない雰囲気の女性だった。通訳のフランス人女性も同様で、二人の明るい人柄につられて、外国人ということを忘れて私は早口でしゃべっていた。
 吉村作品の海外評価は早くから耳にしている。『透明標本』『水の葬列』『少女架刑』『石の微笑』『仮釈放』『関東大震災』などがすでに翻訳されている。これまでの対象作品は外国人が読んでも堪能できる作品群だと納得されるものばかりだが、『破獄』がないのが残念だと反射的に思った。それはまだ英訳が存在しないからだろうか。フランス版も英訳からの翻訳と聞いたことがある。とにかく私は『破獄』こそ海外の人にも刺激的で大いに興味をそそるものだろうと思っている。戦後の日本の文学作品の中でも『破獄』(読売文学賞芸術選奨受賞、昭和五十八年岩波書店刊)は格別興味深いものの一つであろう。なにしろ四回も脱獄をくりかえして、脱獄そのものが生甲斐のような男の半生を描いたものである。それも日本では世間評価の極めてもっともらしい岩波書店を版元にしているので、読者はさらなる深読みの誘惑すらおぼえる。話自体が格別おもしろすぎて、読者の方がむしろ文学的意味づけにこだわってしまうほどである。幽閉からの脱出という極めて文学的な展開は注目すべき主題だが、作者はその側面をむしろ抑制してペンをとっているという印象であった。文学的意味付けに足をすべらさぬよう慎重だったようにすらみえる。とにかく『破獄』にかぎらず、作者の本領たる歴史小説を含めて、吉村作品の今後の海外評価の広がりを期待している。ル・モンドの取材がその側面の新たな一つであってほしい。

勝又 浩

 九月に国立劇場で文楽「天変斯止嵐后晴」を観た。シェイクスピアの「テンペスト」の翻案で、日本の中世、九州の一小国のお家騒動の話に移し変えている。話は要するにエンターテイメントだからあれこれ言うほどのことではないが、先ず冒頭、正面に六人の太棹三味線と一人の一七弦の琴が並んで、オペラの序曲ふうに嵐の描写音楽を奏した。もうそれだけで圧倒されて、私は唸ってしまった。元来太棹は迫力あるものだが、その合奏で海の嵐の光景がみごとに現れていた。私は、一六世紀、シェイクスピア時代に、西洋にこれだけの音楽があったろうか、などと思いながらみていた。まだヘンデルやバッハより百年も前なのだ。
 むろん、これは現代の作曲で、西洋音楽の影響をたっぷり受けているに違いないが、であるとしても、西洋を受け入れ消化してしまう地盤が邦楽にはあるわけだ。
 帰途、筋書きを読んでいると、これは平成四年、日英協会百周年を記念した行事の一つとして作られたもの、シェイクスピア劇を日本の三大古典芸能に移すことになり、文楽が「テンペスト」を受持ったのだとあった。そういえば、能(狂言)は何をやったか見逃したが、歌舞伎の「十二夜」は観ていた。そのときは、時々ある翻案ものの一つだろうとしか思わなかったが、そんな経緯があったと知って改めて別の感想も生まれた。そうか、日本の古典芸能はシェイクスピアを受入れる地盤を持っていたのだ、と。西洋近代劇の影響から生まれた新派劇はもう廃れてしまったが、古典の方はこうして生まれ変わりながら続いてゆくのだ、とも。
 そして人形浄瑠璃のこと。いま義太夫に代表される日本の語り芸はおそらく世界に類のない芸能で、シェイクスピアがいたら面白い新作をどんどん作ったのではないだろうか。

松本 徹

 評論を初め文学研究も最近はつまらないと、日頃から手厳しく批判しているのが、本誌に「視点」を執筆している松本道介さんだが、先日、筆者に向かって身を乗り出すようにして、「面白いですねえ」と言ってくれたものがある。筆者などが編集する「三島由紀夫研究」8号(鼎書房)掲載の、中山仁氏を囲んでの公開討議「三島戯曲を演じる」である。
 昨年秋、山中湖文学の森・三島由紀夫文学館での記録だが、中山氏は「薔薇と海賊」の初演を初め、「鹿鳴館」「黒蜥蜴」など数多くの三島戯曲に出演している。なかでも一昨年の「朱雀家の滅亡」の経隆役が素晴らしく、出席をお願いした。中山氏はテレビドラマ「サインはV」で絶大な人気を博しただけに、実力が十分に評価されてこなかった恨みがあるが、その舞台は堂々としており、かつ、微妙な陰影もくっきりと表現する、いまだに忘れかねる見事なものであった。
 公開討議の日も、質問に対して明快な言葉遣いで、懇切に答えるだけでなく、舞台裏の愉快なエピソードも織り込み笑わせてくれた。サービス精神からと言うよりも、三島の戯曲を巡って考えを深めようとする志を、会場の人々と共有してくれたのだと思う。
 中山氏は、舞台に身を置く限り、自らの肉体でもって、可能な限り観客の目に見えるかたちで、戯曲が表現するものを示そうと、努力を傾けているのがよく分かった。その厳しさは、紙の上に言葉を綴る者の及ぶところではなさそうである。道介さんが感銘を受けたのも、このところで、わたしが喜んで賛同したのは言うまでもない。
 評論家や研究者に限らず、いまは社会全体が抽象観念の病に深く冒されているだけに、自らの肉体に則して思考する姿勢が、真に有り難い。

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